♪作曲家のお話♪

ベートーヴェンのお話

第一回目は、ベートーヴェン(1770年- 1827年)のお話です。


レッスンでベートーヴェンを弾いている小学生の生徒Aちゃんとベートーヴェンのお話をしました。



私「これがベートーヴェンだよ」

$TAKADA Mihoのひとりごと

生徒「わあ~こわい顔!」


私「でも若い時こんなのだったよ。」

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生徒「全然ちがうね!」

けらけら笑っています。


私「ベートーヴェンさんはね、
ヨレヨレの服に、ぼさぼさ頭、しわくちゃ帽子をかぶってね、
ぶつぶつ呟きながらドカドカ歩いて、突然意味もなくワッハッハと笑いだす面白い人だったんだって。それからね、ベートーヴェンさんの家の中は、五線紙が散らかり放題足の踏む場もなかったそうだよ。Aちゃんのお部屋と一緒かなにひひ


くすくす笑う生徒ちゃん。



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ベートーヴェンはどんな生涯を送ったのでしょうか♪

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<ボン時代>(1770~1792)

1770年、ベートーヴェンは、ドイツのボンという町で、音楽一家に生まれた。
ベートーヴェンの家族は・・・
祖父が宮廷音楽家で当時有名な人だった。父親も音楽家だったが、それほど出世はせず、
それどころかアルコール中毒で暴力をふるう困った人だったらしい。ベートーヴェンは、そんな父親にスパルタ教育を受け育つ。

ベートーヴェンは、めきめき才能を伸ばし、16歳にはピアニスト、オルガニストとして認められ、作曲もしていた。16歳の時、ウィーンへ留学、モーツァルトの前で即興演奏をした。しかし、この滞在はわずか2週間となってしまう。ボンの母親が亡くなったのだ。そして、運の悪いことに、父親のアルコール中毒がひどくなり、ベートーヴェンが一家の(父、弟2人)の大黒柱なならざるを得なくなる。(このころの主な仕事は、宮廷楽団でビオラを弾くこと。)


<初期>ウィーン時代(1793~1802)
1792年、ハイドンがボンを訪れる。ベートーヴェンの才能を見たハイドンは弟子入りを許し、ベートーヴェンはこの時以来ウィーンで暮らすようになる。ただ、ベートーヴェンは決して、ハイドン先生のいうことを素直に聞く優等生ではなかったらしい。なんとなく想像つくような?!

ピアニストとしてのベートーヴェンは、即興演奏が大得意で、貴族のサロンで瞬く間に名声を広めていった。ベートーヴェンは、教えることもしようとしたが、そちらのほうはうまくいかなかった。気が短いベートーヴェンには、生徒たちの出来の悪さにイライラしてしまったそうだ。ありゃりゃ・・・

20代の終わりのころ、ベートーヴェンは、耳の不調に悩まされるようになる。耳鳴りが続き、高音が聞こえにくくなったのである。音楽家にとって耐え難いことだ。秘密に治療を受けたが改善されず、思い詰めたベートーヴェンは、1802年、弟にあてた遺書を書く。(ハイリゲンシュタットの遺書)しかし、ベートーヴェンは強靭な精神力を持ってこの試練を乗り越えた。この手紙が公に出ることはなかった。




<中期>
ヴィーン時代中期(1803~1812)

再起へ。
交響曲第3~6番、ピアノ協奏曲第3~5番、ヴァイオリン協奏曲、ゲーテの悲劇《エグモント》のための音楽、序曲《コリオラン》、オペラ《フィデリオ》(第1・2稿)と目覚ましい勢いで作曲する。1810年ごろから珍しく恋愛歌曲を作曲。

というのも・・・

ベートーヴェンは一生結婚はしなかったが、彼の遺品からは、この時期に(1812年7月)書かれた「永遠の恋人」に向けた手紙が見つかっている。手紙には、相手や書かれた場所、年代はについては書かれていないが、数多くの研究から、相手はアントーニエ・ブレンターノであったという説が有力。
(こんな研究をされるとは、ベートーヴェンも赤面だろうなあ・・・。)





<後期>
ヴィーン時代後期(1813~1827)

永遠の恋人に失恋。
難聴は悪化。(45歳からは「会話帳」が使われるようになった。)
甥カールの後見人となる。(この問題を巡ってカールの母親との泥沼の争いが続いた。)

様々な問題を抱え、創作活動は停滞気味に。このスランプは、1813-16年くらいまで続いた。

しかし、再び創作意欲を取り戻し、
《ミサ・ソレムニス》、3つのピアノ・ソナタ(第30番、第31番、第32番)、《ディアベッリ変奏曲》、「第九」交響曲、それに最晩年の5曲の弦楽四重奏曲などを作曲。


ベートーヴェン、56歳でこの世を去る。

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ベートーヴェンの作品紹介♪


やはり、みなさんご存じのこちらから!

交響曲第5番「運命」(じゃじゃじゃじゃーんって曲)



ベートーヴェンというと激しくて迫力のある音楽のイメージがあるかもしれないですが、とっても優しい素敵な音楽も沢山あります。

例えば、
●交響曲6番「田園」
ほら、鳥の鳴き声が聞こえてくるみたい♪




交響曲つながりで、

交響曲第3番「英雄」
この曲は、ナポレオン(1歳半年長で完全な同世代人だった)にささげるつもりだった。しかし、民衆の味方であるはずのナポレオンが皇帝に即位したため激怒。破り捨てたと言われています。





ピアノ3大ソナタ♪これも有名。

ピアノソナタ8番「悲愴」1楽章



ピアノソナタ14番「月光」1楽章


ピアノソナタ23番「熱情」1楽章


モーツァルトのお話

第2回目はモーツァルトのお話です。

 

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト( 1756年 1月27日 - 1791年 12月5日 )、アマデウスとは、ラテン語で神の愛、という意味。

まさに、天賦の才を持つモーツァルトにピッタリの名前ですね。

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私が好きなモーツァルトの曲は沢山ありますが、中でもアヴェヴェルムコルプスは大好きです。



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⑴幼いころのモーツァルト
~@ザルツブルグ、そして、大半は旅~

 

 

 

 

 

 

 

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モーツァルトは、1756年、ザルツブルクに生まれました。可愛い男の子ですね♪実際にその可愛らしい姿と明るい性格で誰からも愛される男の子だったそうです。(後に、冗談がすぎて、下品で礼儀知らずな面も出てきます…幼少期にこれだけちやほやされたら仕方ないかも?!)



モーツァルトの家族♪
父レオポルドと母アンナマリア(中央の肖像画)には、
男3人、女4人の子供がいましたが、無事成人したのは、アマデウスと姉ナンネルだけ。4人家族でした。

 

 

 

 

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ザルツブルグという街♪
私もピアノの講習会でザルツブルクに数週間滞在したことがありますが、こじんまりしていて、とても美しい街でした。

 

 

 

 

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今でこそ、ザルツブルグは、
モーツァルトの街!として有名ですが、
モーツァルトにとっては、
故郷であると同時にほろ苦い思い出のある街でもありました。後述します。



モーツァルトが神童だったことは有名ですね。どのくらいかというと、



①4歳でピアノとハープシコードの短い曲を弾きこなすようになり、5歳になると作曲の勉強を始め、こんな曲を作りました。




②どんな楽器も完璧に弾きこなし、
オルガニスト、バイオリニスト、歌手としても素晴らしい腕前でした。

③12歳の時には、オペラを作曲。
すでに指揮者でもあったモーツァルトは、見事に指揮をしていたそうです。
大人のプロのオーケルトラのトップが小さなかわいい男の子。
なんだか面白い光景ですよね。



そんなモーツァルト少年の天才っぷりを見た父親、
この才能をこの小さな街ザルツブルグにとどめておくなんて勿体無い!と
ヨーロッパの大都市を演奏旅行させることにします。


この旅は、モーツァルト少年に
よりよい就職先を見つけるためでもありました。
当時の音楽家の仕事といえば、
皇帝、国王、貴族等権力者のために音楽を書き、演奏すること。

(音楽家にとって、
音楽は自己表現というより、雇い主の気にいる曲を次々と書くといういわば職人的音楽家の時代でした。

モーツァルトは、この職人的音楽家の時代から、
音楽家が自身の芸術表現として自由に作曲する時代へのちょうど過渡期に生きた音楽家です。)


その中で音楽家のしての成功は、宮廷楽長になることでした。
モーツァルトは、大きな宮廷、中でも当時、音楽の中心であったイタリアの宮廷楽長になることを目指していました。


結局、就職活動のほうは実らなかったのですが、モーツァルトの名はヨーロッパ中に知れ渡ります。

モーツァルトの父親は、
今でいうステージママ、いえステージパパといったところでしょうか。


☆旅先でのモーツァルト

①旅は姉ナンネルも同行し、
弟の前に演奏したり、一緒に連弾をしたしました。


②旅先の演奏会で、モーツァルトは神童ぶりを遺憾なく発揮しました。

観客のリクエストに応えて、目隠しで演奏したり、歌に即興で素晴らしい伴奏を何種類もつけたり♪

前者はまるで曲芸をする動物扱い。
ちょっと可哀想です(*^^*)



③また、モーツァルトは、おませちゃんだったそうで、
シェーンブルン宮殿でマリア・テレジアの御前で演奏した時、

宮殿の床で滑って転んでしまい、

6歳のモーツァルトはその時手を取った7歳の皇女マリア・アントーニア(後のマリー・アントワネット)にプロポーズしたという逸話が有名ですね。


その後二人を待ち受けている運命はいざ知らず…


マリーアントワネットというと、
フランス王家に嫁いで、
のちにギロチンにかけられた人ですね>_<
モーツァルトが35歳で亡くなってから2年後のことです。







⑵青年モーツァルト
~@ウィーン~

旅先の華やかな場で演奏する一方で、
ザルツブルグでのモーツァルトの仕事はといえば、
大司教のもとで
自由もなく、少ないお給料で、
まるで奴隷のように音楽を演奏すること。


モーツァルトは嫌で嫌でたまりませんでした。


25歳。

大司教と喧嘩の末、
拠点をザルツブルグからウィーンに拠点を移したモーツァルト。

結婚したのは26歳の時。
相手は、ウェーバー(「魔弾の射手」の作曲家)の従姉であるコンスタンツェ。

実は、モーツァルトは、本当は彼女ではなくその姉のアロイシアのことが好きだったそうです。複雑ですね(*^^*)


父や姉は結婚に大反対!


モーツァルトは、派手好きでお金遣いが荒かったそうです。
売れっ子モーツァルトの収入は悪くない額だったのに、お金を湯水のように使っていたせいで、いつも貧乏をしていました。



生活のために猛烈に働きます。

ウィーンの皇帝の宮廷で上の地位に就くことを望みましたが、
サリエリに邪魔されます。当時は、音楽家といえば、イタリア人、だったそうですよ。

(ちなみにサリエリとモーツァルトの対立は有名ですよね。ただ、映画「アマデウス」のように実際モーツァルトを殺したという事実はありません。)



30歳、「フィガロの結婚」の初演が大成功ビックリマーク
モーツァルトの生涯で最も輝かしい時期・・・✨




35歳、オペラ[魔笛」






しかし、魔笛を作曲したその年・・・



⑶晩年のモーツァルト
~35歳、不幸な最期~

ある日、黒づくめの奇妙な服装の使者の訪問を受け、レクイエム(死者を送る曲)を書いてほしいと依頼されます。

モーツァルトは、既に体調を崩していたこともあり、
これは自分の葬儀の曲だ、
死者の使いがやってきたのだと思い込み、精神的に追い詰められます。


実は、黒づくめの男は、ある伯爵の使いの者でした。伯爵は、モーツァルトの曲を自分が作曲したように見せかけるために、
匿名でモーツァルトに作曲を依頼したのです。
なんてお騒がせな人なのでしょう。



結局、モーツァルトは、死ぬ直前までレクイエムを書きましたが、
完成されませんでした。



モーツァルト35歳、この世を去ります。


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モーツァルトのピアノ曲ご紹介♪

○ソナタ18曲。名曲揃いで選べないですが、トルコ行進曲付きソナタは有名ですよね♪


○ピアノ・コンチェルト27曲

ピアノソナタ23番2楽章


○ピアノ変奏曲
きらきら星変奏曲